昨日、私は、次の記事を書きました。
▼3月18日 正しい価値判断~「私たちにできること」ではなく「私がやること」(#299)
思わぬ反響をいただき、少なからずの方から共感のメッセージをいただきました。特に阪神淡路大震災の被災経験者から共感をいただいたのは、大きな励みになりました。
一方で、自分が責められたと勘違いしたのか、ややピントはずれなご意見もあったように思います。
簡単にまとめると、私が何も行動をしないくせに、一般論、きれいごと、正論を吐いているだけというような意見です。
そのような方には、私は何も禁止しておらず、ただ考えて欲しいと言っているだけだということを再確認して欲しいのですが、それだけではダメなように思いました。
逆に、なぜそのような誤解を受けるのかということを考えてみました。一般論、正論という言われ方にヒントがありました。私が自分の体験に基づくものだということを語っていなかったからだと気づきました。
なので、かなりつらいのですが、私の過去の「罪」について語りたいと思います。
●鬱病は、周りからは病気には見えない
私は、17年半SEとして働きました。その間、もちろん楽しいこともありました。苦しいプロジェクトをやりとげて、お客様から感謝され、仲間同士でも本当にがんばってよかったと振り返ることができ、自分も成長できた――これ以上の幸せはありません。
しかし、残念ながら、いろいろな理由から、「デスマーチ」と呼ばれるひどい状況になることも多い仕事でした。
デスマーチというのは、どうがんばっても納期には間に合わない状態になっているのに、問題を先延ばしにするために(要するにがんばっている姿を見せるだけのために)、次々と人とお金を投入することです。
そのような状況になってから人を投入しても、役に立つわけがありません。それまでの経緯が分からないからです。なので、人をつぎ込めばつぎ込むほど、教育のためにお金と時間が使われるだけで、肝心のプロジェクトはまったく進まない状態になります。
あるデスマーチ・プロジェクトに関わったことがあります。バブルがはじけた後に、仕事が欲しくて、納期も予算も無理という仕事を受注した結果でした。
仲間の一人が、鬱病で倒れました。
しかし、「がんばっている」人間から見ると、鬱病というのは、仮病にしか見えないものなのです。
鬱病で倒れた彼に対して上司は、「そうやって出社しないと、ますます敷居が高くなるぞ」という心無い言葉をかけていました。そして、当時の私は、上司の側に共感していました。
彼は、しばらくして、出社しましたが、その後すぐに退職しました。
●エースが来たが
いつまでたってもデスマーチから抜ける気配のないプロジェクトに業を煮やした部門長は、課の編成を見直し、部門の最優秀技術者の一人である上田課長(仮名)をマネージャとして送り込みました。
エース投入でなんとか事態を収束しようということでした。事実、他のデスマーチ・プロジェクトを立て直した実績もありました。
とき、私のキャストが壊れた足首のために外れます
上田課長は、当初は、顧客との折衝や、ソフトウェアの品質向上に精力的に取り組んでいました。
上田課長は、本当にまじめな方でした。我々は当時大阪に事務所があるにも関わらず、顧客は東京という変則的な体制でした。
東京に出張して顧客と折衝し、日帰りで大阪に帰ってきてからは、下手をすると明け方までプログラムのソースコードや設計ドキュメントのチェックをしていました。
こんなことが長く続くわけはありません。上田課長は、鬱病を発症してしまいました。
●私たちが殺したのだ!
私は、当時上田課長の直下にいました。うろたえた私は、部門長や、以前上田課長の上司だった別の課長や、部内の有志を誘って、上田課長を励ます会を企画しました。
上田課長は、病気を押して来てくださいました。今、心中を思うと、本当に心が痛みます。
我々は、いちばんやってはいけないことを、上田課長にしました。
まず、上田課長ならできると期待を伝えました。
そして、絶対にやれる、一緒にがんばろうと励ましました。
上田課長は、号泣しながら訴えました。「がんばれという言葉が一番つらい」と。
その後、上田課長は、2週間ほど休んだあと、抗鬱剤を服用しながら、任務に戻りました。
そして、プロジェクトが終わった後、無断欠勤し、行方不明になりました。
見つかったのは1週間後、あるホテルの一室でした。すでに遺体となっていました。
告別式に参列しました。みな一様に涙を浮かべていました。私も涙が止まりませんでした。まじめな人柄や人を責めない態度で慕われていた方でした。
参列していた一人が叫びました。「我々が上田課長を殺したのだ!」と。励ます会に参加したメンバーの一人でした。
しかし、当時の私は、比喩的な意味で、その言葉を捉えていました。
●今度は自分が神経症になる
それから数年後、今度は私自身が、神経症を体験しました。
上田課長の死の本当の意味はまだ分かっていなかったのですが、鬱病を恐れる気持ちは日に日に高まっていました。それほど、当時のIT業界は過酷な状況でした(今も続いているのかもしれません。IT業界の鬱病罹患率は7%と聞いています)。
なので、鬱病に対する知識も増えていたのですが、どこか他人事だったのは否定できません。
私は、かなり過酷なプロジェクトのマネージャーを務めていました。社内外に10を数える、利害が対立する組織があり、その中心で情報整理や折衝をする立場でした。
いろいろなネガティブ情報が流れてきます。あそこの部門とは仲良くしたくないので、どうぞよろしく、みたいな情報です。そして、当然ながら、すべての組織からのプレッシャーが私に集中しました。
こんなときに本当に大事なのは、「聞き流せる力」だと思います。しかし、それは当時も今も私には持ち合わせていない能力です。
ある日の社内ミーティングで、私はその場ではトップの立場でありながら、わんわん泣き出してしまいました。聞きかじりの知識で、これは鬱病の前駆症状だと思い当たりました。
私は、ミーティング直後に早退して、精神科を受診しました。
死の21グラムの体重減少
幸い、鬱病ではなかったのですが、抑鬱神経症と診断されました。休んだほうがよいとのことだったので、2ヵ月の休養を勧めるという診断書を書いてもらいました。
●なってはじめて分かること
私は翌日、診断書を持って、部長のところに2ヵ月休ませて欲しいとお願いに行きました。
そのときの部長の一言が忘れられません。「おまえ、本当に休むのか?」
2ヵ月休養の診断書でしたが、本当は休めても1ヵ月かなと思っていました。しかし、この言葉を聞いて私は、これは休むしかないと逆に決心しました。部長の説得には耳を貸さず、次は2ヵ月後に出社しますので、と強引に席を立ちました。
その後、その部長とは二度と打ち解けることはできませんでした。
部長以外にも、私がさぼったとか逃げたと言っていた人が何人かいると、見舞いに来てくれた部下にそれとなく教えてもらいました。
私は、鬱病にかかった仲間や上田課長を思いやれなかった報いだと自分を責めました。しかし、同時になんで誰もわかってくれないんだと被害妄想的な状態にもなりました。
鬱病だと自責が中心になります(最近は他責系の鬱病もあるようですが)。神経症だと、自責と他責が交互にやってきて、とても不安定な状態になります。
この不安定さは経験した者でないと分からないと思います。本当につらいのです。
自分では抑えたいのに、ネガティブな感情が次々とあふれ出してきます。バカ野郎、死んじまえ、いや自分こそ死んだほうがいい、のようなネガティブなワードが出てくるのを抑えることがまったくできなくなります。
涙も止まらない。怒りも止まらない。無力感や自責の念も止まらない。寂しさも止まらない。交互にやってきます。薬を服用するしかない状態になります。
私は、自分が神経症になってようやく、神経症や鬱病はサボりではなく、本当にある病気だと実感したのです。そして、神経症でもこれだけ苦しいのだから、鬱病がどれだけ苦しいのか想像を絶していることに気づいたのです。
そして、ようやく「上田課長を殺したのは我々だ!」という言葉の本当の意味が分かったのです。
期待し、励ました我々が上田課長を殺したのです。
●家族の発症で気づく場合も
私は、なんとか復職し、2年ぐらいかけてリハビリしました。その間の会社の思いやりには今も感謝しています。
ところで、私が復帰したあとの上司は、以前鬱病の部下に「敷居が高くなるぞ」と声をかけた人でした。
私は、たぶん理解してもらえないだろうなと思ったのですが、上司の一言は意外なものでした。
「実は、あれから嫁さんが鬱病になって、自分がどれだけ鬱病に理解がなかったかを思い知った。だから、お前の気持ちは理解できると思う」
おかげさまで私はなんとか社会復帰できましたが、上司にこのような体験がなかったらと思うとぞっとします。
そして、自分か身近な人が体験しないと、やっぱり分からないことなのだなと改めて理解しました。
●PTSD(心的外傷後ストレス障害)も同じ
震災から1週間が経ち、マスコミもようやくPTSDのことを言い始めました。
あなたが愛を食べることができると出血あり
NHKでは、「がんばろう」等の励ましの言葉はできるだけ避けようと言っていました(その直後に、がんばろうだらけのボイスメッセージを流していたのには、あきれましたが・・・)。
PTSDとは、こんな感じの障害だと理解しています。
災害直後は、なんとか苦しみや悲しみをシャットアウトしようという心の働きが訪れます。そのときにいつも以上にハイテンションになる人もいます。
津波で家を流されたにも関わらず、またがんばればいいんだと言っていた、おじいさんがいました。多くの人が励まされたと言っていました。しかし、私は、PTSDの典型的症状であり、誰かがひとこと「がんばらなくていい、つらいときにはつらいと言ってください」と声をかけるべきだったのではないかと思います。
お母さんがなくなったのに、涙一つ流さず、気丈な言葉をインタビューで答えていた子供もいました。この子は、落ち着いてから、なぜあのとき自分は涙一つ流さなかったのか自分を責め始めるのではないかと心配です。どうか身近な方は、そのときにケアしてあげてほしい。知らないこととはいえ、酷なインタビューをする人間がいるなあと思いました。
しばらくは、ハイテンションが続き、気力が充実しているように見えるのですが、早い人で1週間、通常は1ヵ月ぐらいで、災害の記憶と恐怖心がそれこそ津波のようにフラッシュバックしてきます。
この苦しみを私は想像することはできないのですが、たぶん私が神経症のときに、感情の波をまったく止められずに苦しんだ、あの苦しみと同等かそれ以上のものではないかと思います。
そのようになっている人に、励ましの言葉はいっさい利きません。それどころか期待や励ましが自殺の原因になることさえあります。
必要なのは、ただただ思いやることと共感すること。もうがんばらなくていい、そばにいるから大丈夫だと伝えること。それだけではないかと思います。
私は、心根がやさしく、気高い行動を取っている方々に、私がしたような後悔――私が上田課長を殺した。あのときに励まさずに共感していたら、もしかしたら死なせずにすんだかもしれない――をしてほしくないのです。
追記
いくら言っても分かってくれない人は、もしかしたら私を責めることで救われているのかもしれません。そうであるならば、私は過去の報いとして、甘んじて受けることにしました。これは上から目線でも、自責でもなく、それで自分が救われるかもしれないと思うからで、利己的な気持ちです。
また、批判のおかげで今回告白した記憶を、数日間封印していたことに気づきました。おかげさまで気持ちのつかえがだいぶおりたようです。そういう意味では、批判者に感謝するしかありません。
なお、私がいま一番心配しているのは、家族の中で自分だけが生き残ったような方です。そのような方が、万が一この記事を読んだら、自分を責めるかもしれません。ただ、読まなくても、自分を責めることでしょう。どうか近くの方は、ケアして差し上げてください。
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本当に有難い意見を電話でいただきました。同様に感じている方も多いでしょうから、コメントします。
> 重たい内容なので、自分がしかられている気がした。
すみません。その意図はまったくありません。ただ私の文章は、まじめな方ほど、そう感じてしまうことが多いようです。未熟だと思っています。
> 批判を封じ込めている。言論の自由はないのか?
これはおっしゃるとおりです。私も人間なので、批判されるのは正直いやです。ただ、過剰に身を守っているということであればその通りだと思います。ガチガチの鎧の中から書いていますね、確かに。これは、反省するというよりは、その通りだと認めます。
ただ、批判者にも感謝しているというのは、読んで字の通りですし、このようなご意見こそ本当にありがたいと思っています。
> (筆者森川の)怒りを感じた。
これは、逆です。怒りよりも、なんとか分かって欲しいという必死さです。それが怒りに感じられたのならば、表現が未熟だからと思います。
> いちいち批判者に反論している様子が、大人気なく思えた。
そうですね。おっしゃるとおりです。大人気ないです。これを最後にします。
> 普通の精神状態じゃないと思う。いまは発信を控えたほうがいいのでは。
ありがとうございます。少なくともこのような重たいのは、しばらく止めることにします。ただ、発信は習慣になっており、やめるのは逆に精神衛生上よくありません。自分本位で申し訳ないのですが、書くことで救われている面もあります。明日以降当面は、できるだけ人の気持ちを揺さぶらないものを書くつもりです。
もっと人の心を温かくできるものを書きたい。そんな人間になりたい。今回のいろいろなやりとりを通じて、そのように思うようになりました。
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被災地のために何かできないか考えている方は、まずこれを読んでみてください。
その上で、これを読むといいと思います。
また、テレビで読み上げられているFAXも参考になります。みんな、こんなに暖かい言葉を持っているんだなと感動します。特に子供たちの言葉がすばらしい。襟を正して聞いています。
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糸井さん、その通りですね。
私も、心のことは、この辺で打ち止めにしようと思います。
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